イタリア旅行 4日目 ポンペイからアマルフィへ
私事で申し訳ないのですが先々月に入籍し、先月に結婚式を挙げ、今月初めより新婚旅行でイタリアに出かけておりました。
ということで引き続き旅行4日目の出来事をお届けしていきましょう。
※当ブログ内容はあくまで個人の主観に基づくものであることご了承ください。
ご理解頂ける方は続きをどうぞ( ´ ▽ ` )
今日もホテルで朝食を取って少ししてからバスで目的地を目指します。場所はポンペイ遺跡。
歴史的建築物や世界遺産に疎い私で申し訳ないのですが、ポンペイ遺跡もかなり有名どころなのだそうで浅学を反省するばかりです。笑
ポンペイは、イタリア・ナポリ近郊にあった古代都市です。現在より約2000年も前、79年8月24日の昼過ぎにヴェスヴィオ火山噴火による火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコの遺産に登録されています。長くなりますが以下Wikipediaより引用です。現地で撮ってきた写真もお楽しみください。
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歴史

カンパニアの諸都市が同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わった。しかし紀元前89年、ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服されポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマの植民都市となった。ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名はColonia Cornelia Veneria Pompeianorum(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。ポンペイは港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えた。
娼館に残っていた壁画

79年のヴェスヴィオ火山噴火
62年2月5日、ポンペイを襲った激しい地震によりポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。再建作業はされたが、不完全な状態で79年8月24日の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。
翌25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。降下火山灰はその後も続いた。軍人でもあった博物学者のガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による当時の記述から知られている。
当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙である。これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、松の木(イタリアカサマツ)のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだのを見たと記録している。火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られる。これは火山が噴火したときに、高温ガスや灰や岩石が雪崩のように流れる現象である。プリニウスは爆発時に地震を感じ、地面は非常に揺れたと述べている。さらに灰がどんどん積もり、彼は村から逃げなければならなかったが、海の水がみるみる引いていった後に「津波」がおきた。ただし、当時のヨーロッパ人は津波 (Tsunami) という言葉を持っていなかったので、プリニウスの表現は違っている。プリニウスの記述には、太陽が爆発によって覆われてよく見えなかったと続き、大プリニウスはこの現象を調査するために船で再び陸に向かったが、窒息して死んだ。二酸化炭素中毒によるものと現在では考えられている。
噴火直後に当時のローマ皇帝ティトゥスはポンペイに役人を派遣するが、市は壊滅したあとだった。市民の多くが火砕流発生前にローマなどに逃げたが、これら一連の災害により、地震の前には2万人程度いたポンペイ市民の内、何らかの理由で街に留まった者の中から逃げ遅れた者約2千人が犠牲になった。
1738年にヘルクラネウム(現在のエルコラーノにあった)が、1748年にポンペイが再発見され、建造物の完全な形や当時の壁画を明らかにするために断続的に発掘が行われた。これはドメニコ・フォンターナという建築家がサルノ川沿いを掘っていた1599年に遺跡を見つけてから150年が経過していた。この時点までヘルクラネウムとポンペイは完璧に消滅したと考えられていた。いくつかの男女の交わりを描く美術品(フレスコ画)は、最初フォンターナによって発掘されたが、将来考古学者によって再発見されたほうが重要性がわかるであろうと判断したフォンターナ自身が埋め戻したとされる[要出典]。ただしこれには明確な証拠はない。
ポンペイのナルキッソスの絵.

ポンペイの壁画が豊かな色彩を失わなかった秘密は、この街を襲った悲劇にあった。西暦79年8月24日、町の北西 10 kmにあるヴェスヴィオ火山の噴火により押し寄せた火砕流や有毒ガスが、ポンペイの人々の命を次々と奪っていった。一瞬にして5メートルの深さに町全体を飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存した。ポンペイが人々の前にその姿を再び現した18世紀半ばから、発掘は今に至るまで続けられている。地中から次々と現れるローマ時代の遺品の美しさに世界が驚愕したが、その美しさの秘密は実は火砕流堆積物にあった。火山灰を主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲルに似た成分が含まれ、湿気を吸収した。この火山灰が町全体を隙間なく埋め尽くしたため、壁画や美術品の劣化が最小限に食い止められたのであった。当時の宗教儀式の様子を描いた壁画の鮮烈な色合いは「ポンペイ・レッド」と呼ばれている。ポンペイの悲劇が皮肉にも古代ローマ帝国の栄華を今に伝えることになった。
ポンペイは建造物や街区が古代ローマ当時のままの唯一の町として知られている。後の歴史家たちは、その歴史家の時代のローマは古代ローマをそのまま伝えていると誤解していたが、ポンペイこそが最も純粋に古代ローマの伝統を守り、ほぼ直角に交差する直線の大通りによって規則的に区切られ、計画的に設計された町であった。通りの両側には家と店がある。建造物は石でできていた。居酒屋のメニューも残っていて、こう記されている。「お客様へ、私どもは台所に鶏肉、魚、豚、孔雀(くじゃく)などを用意してあります。」
石膏で復元した遺体

野外闘技場跡よりヴェスヴィオ火山を望む
町は、1世紀の古代ローマ人たちの生きた生活の様子をそのまま伝える。焼いたままのパンや、テーブルに並べられたままの当時の食事と食器、コイン、クリーニング屋のような職業、貿易会社の存在、壁の落書きが当時のラテン語をそのまま伝えている。保存状態のよいフレスコ画は、当時の文化をそのまま伝える。当時のポンペイはとても活気のある都市だった。整備された上下水道の水道の弁は、水の量を調節する仕組みが現在とほとんど変わらず、きれいな水を町中に送っていた。トイレが社交の場となっていたらしく二人掛けのトイレが存在し、トイレは奴隷とその主が共同で使用しており、トイレの壁に「見事だ」と奴隷による落書きが残された遺構がある。発掘された排泄物や骨の調査から、身分によって食事の内容に違いはなく、皆健康的な食生活を送っていたらしい。
爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ人(ローマ市の住民)の別荘も多くあり、また彼ら向けのサービスも多くあった。Macellum(大きな食物市場)、Pistrinum(製粉所)、Thermopolia(冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料を提供したバー)、cauporioe(小さなレストラン)、円形劇場などがあり、噴火直前までこれらが営業していた痕跡がある。2002年にはサルノ川河口にボートを浮かべ、ヴェネツィアのような船上生活をしていた人がいたことが判明するなど現在も新事実が続々と報告されている。
「市民全員が噴火で死亡し、唯一の生き残りの死刑囚がポンペイの町のことを語ったが、誰も信用しなかった。しかしそれは伝説として残り、発掘されることになった」という逸話が伝わるが事実ではないと思われる(とりわけ死刑囚に関する事項)。火砕流は歴史的にはまれな現象であり、目撃者は殆ど全員が死亡するので伝説としても残りにくく、一般人に理解されることは困難である。この逸話は1902年に、西インド諸島のフランス領マルティニーク島にあるプレー火山で起きた同様の火砕流噴火を下敷きにしていると思われる。この噴火では火砕流以外に麓のサンピエール市で泥流が発生し、警察の留置場に拘留されていた囚人を含めた3名のみを残して住民約2万8千人が一瞬にしてほぼ全滅した。
ポンペイの建築物が発掘により白日の下にさらされたことにより、止まった時計が再び動き出すかのごとく、雨風による腐朽が進行するようになった。2010年11月8日には「剣闘士の家」と呼ばれた建物が倒壊、翌2011年10月21日には「ポルタノラの壁」が倒壊している。
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長々と引用してしまいましたが、要するに2000年前に繁栄した大都市が火山の噴火によって一瞬にして壊滅したという場所ですね。逃げ遅れた人が火山灰に埋まり、腐って骨とその空洞を残したことから当時の様子が生々しく、姿を当時のまま現在にまで伝えているということがとても歴史的価値があるのだなと思いました。フレスコ画は本当に綺麗で,これが2000年も前に描かれていたと思うと、当時ここがどれほど栄華を誇っていたのか計り知れません。待ち合わせの目印があったり、ある「ヒミツ」の紋章が路上にこっそり描かれていたりと細かい部分にまで生活の機微がしっかりと現れている点などは、当時の人にとっては現在にまでそのまま残り大勢の人たちに見られるなんて考えもしなかったでしょうね。
今私たちが住んでいる住居や建物が、2000年後にそのまま現存しているかと言われますと、おそらくほぼ確実に跡形もなくなっているのでしょう。まさにポンペイ遺跡は当時の人々の生活を現在にそのまま伝えているという意味で途方もなく歴史的価値が高いのだと感じました。
さて、ポンペイ遺跡を出て割とすぐのところで昼食です。ここはJTBの添乗員だけでなく旅行会社スタッフの間でも美味しいと有名の場所でした。美味しいというだけあって店内は大勢の観光客で賑わっていました。

しかも日本で食べるピザのようにピザカッターで切られている訳ではなく、十字に「切れ込みを入れようとした痕跡」が見受けられる程度のものしか施されていなかったのでナイフとフォークで切るという新体験。しかし現地ではこれが普通で、切れ込みが入っていること自体が日本人仕様だそうです。どうなっているんだ・・・
なんでも切ったピザを手でつまんで食べる方法はあまりよろしくない作法らしいのです。カルチャーショック。
さて、昼食を済んだところで午後からはアマルフィです。

アマルフィは起伏というかほぼ斜面にできた町なので交通の便はあまり良いものではなかったので、ドライブしにくるのはいいですが住むのはちょっと、、というのが私個人の感想でした。ちなみにアマルフィ海岸近辺の道路は道が狭く、大型バスの進入が禁止されているためこの日だけ少し小ぶりのバスで観光しました。それでもバス同士がカーブで鉢合わせ(しかも急勾配のところで!)するとどちらかがある程度後退してやり過ごすなど見ていてとても大変そうでした。
アマルフィを後にしてナポリのホテルに戻り、食事をとって今日の旅行は終了です。観光地の運転手さんってすごいです。
旅行4日目はこんな感じでした。
それでは今回はこの辺りでお暇しますね。ありがとうございました。
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